まほやくにおける男女二元論とジェンダー観について、「魔法使いの約束 1st Anniversary きみに花を、空に魔法を」を読んで思ったことと、男でも女でもない私という人間の話。

まほやくにおける男女二元論とジェンダー観について、「魔法使いの約束 1st Anniversary きみに花を、空に魔法を」を読んで思ったことと、男でも女でもない私という人間の話。
 
今回で心に致命的な傷を負ってしまい、どうしていいのか分からなくなってしまったのだけど、この傷のためにまほやくというコンテンツ、ストーリーについて良いと思ったこと好きだと思ったこと信じて祈りたくなった気持ちまで覆い隠して消してしまわないように、書き留めておくことにした。好きだと思ったことも傷ついたことも書いていく。イベントストーリーのネタバレを含む感想があるので注意。
 
今回のイベスト単体で駄目になったというわけではなく、インストールした初日、一番最初に行った病の沼で「スポットにいた魔法使い」を読んだ時から不安や懸念があったのだが、その直感は間違っていなくて、「まだ大丈夫」って薄目で見続けたら今回でもう見ないふり出来なくなった、という感じだった。私は男でも女でもないひと、「無性別」と表現するのが一番自分に近いものだろう、と思って生きているひとだ。わざわざ書くかどうかは迷ったけれど、無理だなと感じる最も大きな要因になっているのが「己の性自認の存在を大事にしたいから」なので、最初に書いておく。あと私が表明することで、「ファンタジーではない現実世界に『無性別のひと』が存在していること」を認知してもらえたら幸いだな、と思うので書く。
 
まほやくの世界には、人間も魔法使いもどちらも、男と女の二つしか性別がない。それも性自認ではなく、肉体のみを基準にして判別をしている。
主人公の真木晶の性別を選ぶとき、「女性」と「男性」の二択を提示される。「それ以外」を選択することはできない。主人公は作中の語り手として文章にのみ存在し、台詞の横に顔が出るわけでも、カードのイラストに描かれるわけでもないのに、男女それぞれのビジュアルが用意されている。
病の沼のスポットサブエピソード「スポットにいた魔法使い」では、魔法で男にも女にもなれる魔法使いがいることが語られる。けれどそれは性自認の話ではなく、肉体を「オス」か「メス」か選択して変化させることが出来る、という意味だ。肉体の性と、性自認が、誰しも一致している世界として、まほやくの世界は描かれている。性別二元論、男女二元論、と呼ばれる概念で形成された世界であると思う。私のような「男でも女でもないひと」は存在しない。描かれていないのではなく、初めからこの世界にいることを想定されていないように思う。私のような性別に限らず、肉体の性別と性自認の一致しないひとたちは、存在を想定されていないだろう。
 
きっと、そういう人間はこのコンテンツのターゲットじゃないんだな、と思った。コンテンツなんてそんなもんだろう、大抵いつもそうだし、と思っていた。思った、というより、思い込もうとした、が近い感覚だった。きっとこのコンテンツはシスジェンダー女性のためのコンテンツなんだろうと。私にとって傷つく表現があっても、それはしょうがないのだと。けれど、10月末のインタビュー記事で改めてはっきり「女性向け」だと書かれたこと、その上で、シナリオライターの都志見さんが「主人公の性別を選べるようにしたので、魔法使いは性別という概念はないことにしよう、と思いました。」(出典:現実世界を強く生きられるような物語を――『魔法使いの約束』都志見文太の創作論)と語っている文章を目の当たりにした時、本当にショックで悲しかった。まほやくにおける魔法使いの世界は、「性別という概念がない世界」なのではなく、「社会的な性差がない世界」だ、と思う。何故なら魔法使いの世界には「魔法使い」だけでなく「魔女」がいるからだ。そこに「性別」は確実に存在する。まほやくに描かれる世界は「男と女という二つの性別があるが、そのことよって社会的待遇に差をつけられない世界」だと思う。女性向けコンテンツにおいて、現実世界の人間の「『あなたは女性だから』と性別を理由に扱いを変えられてしまう痛み」に配慮したことはとても正しく、とても誠実なものづくりの姿勢だと思う。あなたが男であっても女であっても、誰も態度を変えない。コンテンツを通して放たれるこのメッセージに励まされた読者も多いと思う。けれどその結果、現実に生きる「本当に性別のないひと」である私は、主人公の性別を男か女かの二択でしか選べないことに痛みを覚え、性差をなくそうと意図して作られたファンタジーの住人ですら肉体によって男と女という性別を付与されてしまうのだ、ということをコンテンツ側から提示され、そのことに傷ついているのだと、それが途方もなく悲しく、強い虚無感を抱いてしまった。
 
それでも、まほやくというコンテンツの「言葉」に対する信頼や祈り、希望と絶望の描き方、絆や孤独に対する向き合い方がとても好きだったので、この痛みにだけ目を瞑って、これからも応援しようと思った。
今回のイベントでそれすら無理かもしれないと思うまでになったのは、目の見えないカインがオーレオリンのことを、声のトーンだけで「女? 魔女?」と判断しようとするさまに耐えられなくなってしまったからだ。
まほやくの、魔法使いの世界における男女二元論的な設定は、結果的に「男らしさ」「女らしさ」の価値観、そしてルッキズムに通ずる要素を内包していると思う。目の見えないカインが、目の前の相手の男女を区別しようとするのは何故か、そして、区別するのは「何」によってか。「リケ」と「リケみたいな美少女」を隔てるものは一体何なのか、という話でもある。声のトーンが高ければ女なのか、胸が膨らんでいれば女なのか、子供を産める体であれば女なのか、声のトーンが低ければ女ではないのか、胸が平たければ女ではないのか、子供を産める体でなければ女ではないのか。こうして「目の前の相手が女(魔女)であるかどうか」と他者から判断されてしまうこと自体、現実世界の人間が社会規範として押し付けられてきた「性差」そのものではないか? と思う。本当に性差のなくなった世界で、自分と対峙する相手の性別をわざわざ認識する必要が、あるだろうか。
他人が身体的特徴から相手の性別を判断する世界、それがおかしいことでなく、当たり前に可能であることとして描かれる世界というものが、個人的にかなり受け入れがたかった。それを「性別という概念はないことに」するつもりでコンテンツ側が発信している、ということが、より一層受け入れがたい気持ちに繋がっていると思う。なんにも考えていないと言われた方がいっそ諦めがついたと思う。他者の価値観を認め、他者を知りたいと願い、紳士的に、傷つけないように、心を通わせようするさまを丁寧に描いている善意あるコンテンツが、無意識にこれらを内包していることがつらい。
 
冒頭に記したが、まほやくというコンテンツ、ストーリーについて良いと思ったこと、好きだと思ったこと、信じて祈りたくなった気持ちは、私の中に確実にある。
「心を繋ぐ」とはどういうことか。先の見えない未来に「それでも」と約束をする誠実さ、先の見えない未来に裏切ることがないようにと約束をしない誠実さ。「この約束を破ればあなたの願いを叶えられる」と思うこと。誰かのために居場所を作ること、作ろうと思うこと。魔法が使えないから、言葉を使うということ。言葉は魔法になるということ。
今回のイベントストーリー、「きみに花を、空に魔法を」にも好きなシーンがめちゃくちゃある。シノがミチルに「おまえにだけ話す」と言って、大事なひとを託すところ、初めて庇護の対象としてでなく、頼りに出来る仲間として扱ってもらえて、「嬉しかった」とミチルが言うところ、それに対して「その理屈で言うと、俺のことは認めてないってことだろ」と怒るヒース。同国の繋がりでも意図された称号の組み合わせでもない誰かとの関係性が、誰かの絆に干渉して、それを強く結んでいくところがすごくよかった。二人きりの閉鎖的な世界では叶えられなかったことが、広い世界で多くのひとと触れ合って、遠くに光を見出すところ、まほやくの好きなところだ。
同じようにオーエンとクロエ、ラスティカの関わりも本当によかった。ていうかオーエンが「カイン」って名前呼ぶところめちゃくちゃよかった……「触ったら、見える?」が本当に……。ラスティカが相手じゃなかったら悪ぶってそのままだったかもしれない、そんなの分かってるよって苛々しながらも助ける方法を尋ねてくるところ、あれ、相手が違ったらそうはならなかっただろうと思う。
ラスティカ、本当に全編通して素敵だったな。特に「嫌なことを考えると、ありがとうってうまく言えない」のクロエに「言わなくていいよ」っていうのが最高によかった。「言えなくていい」じゃなくて「言わなくていい」なんだよな。「出来なくていい」じゃなくて「しなくていい」という言葉。出来ないこと自体への励ましじゃなく、出来ない時は無理にしなくていい、という助言なのがめちゃくちゃいい。クロエがラスティカに出会えていろんなことを教わってよかったなと思うし、そんなクロエがオーエンに祈りを教えるのが本当によかった。クロエの祈り、痛い目にあってもいい人なんていない、そんな人として選ばれたくない、そんな風に人を選んじゃいけない、それらの意志を揺らがないように守るのが「心の強さ」だということ。
今書いてて繋がってきたけど、ここの描写からミチルの「ボクがリケの心の支えになります。きみの心を強くします」の真摯さよ……。魔法は心で使うもの、誰かの存在が誰かの心を強くすること、あなたの言葉が、祈りがあるからこそ、灯した火を強く、揺らがぬようにできるということ。
 
まほやくの描く世界には、私が人生でずっと大事に抱え続けてきたものと同じものが確かにあって、そこに励まされ、背中を押されることは間違いなくあった。
でも、私はこのコンテンツに存在する、祈りだと思える言葉と、呪いだと思える言葉の、どちらが自分の中で勝るのかを考えなければいけないと思う。祈りが勝ればまほやくを通して心を強くすることができるだろう、けれど、呪いが勝れば心を弱くしてしまうだろうと思う。みんなのようにまほやくの世界を心から祝福して喜びたかった、こんなことを気にしなくていい、こんなことで傷つかずに済む人間に生まれたかった、という気持ちが今とても強くて、このままだと何かを呪ってしまうと思ってこれを書いている。私は私の言葉を呪いにしたくない。言葉は祈りで、それを胸に灯して生きていくような、そういう人間としてなんとか生き延びてきたので、今後もどうにかそうやって生きていきたい。
 
今、私にとってどんな言葉が、どんな物語が祈りに、祝福になるのか、胸のあかりになっていくのかを考えていかなければいけないと思った。まほやくに限らず、本当に自分に必要なものがなんなのか、それはどこに在るのか、さまざまなコンテンツと向き合って考えようと思う。
そして既存の物語の中に、求めるものがないのだと確信した時、私は自分の手で、自分の言葉で、それを一から創らなければ、と思う。
魔法使いの約束という作品に触れて、「言葉の力を信じたい」と改めて心から祈ったことを、己の人生の祝福に変えられる人間でありたいと、切に願う。